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萩市の伝建地区【堀内地区】

萩市の伝建地区【堀内地区】

城下町萩は、毛利輝元が慶長13年(1608)に指月山に白を築き、町割を行ったことに始まります。伝建地区は旧三の丸にあたる堀内のほぼ全域で、藩の諸役所(御蔵元・御木屋・諸郡御用屋敷・御膳夫所・御徒士所)と、毛利一門をはじめとする大身の侍屋敷が建ち並んでいました。近世城下町の侍屋敷としての地割をよく残し、土塀越しにみえる夏蜜柑とともに歴史的風景を形成している点に高い価値が認められています。

○国の指定 昭和51年9月4日 (武家町)面積約55ha
○伝統的建造物
・建築物43件
・工作物(土塀、石垣など)267件
・環境物件(生垣など)140件

萩市の伝建地区【平安古地区】

萩市の伝建地区【平安古地区】

城下町萩は阿武川下流デルタに位置しますが、武士のうち重臣の多くは旧三の丸である堀内に居住していたのに対し、平安古は開墾が進むのに並行して数多くの中下級武士が屋敷地を構えたところの一つです。橋本川沿いにあり、江戸時代以来の地割をよく残し、主屋のほか長屋門、土蔵などの建築物をよく残し、当時の屋敷構えを伺うことができる点に高い価値が認められています。

○国の指定 昭和51年9月4日 (武家町)面積約4ha
○伝統的建造物
・建築物13件
・工作物(土塀、石垣など)35件
・環境物件(生垣など)16件

萩市の伝建地区【浜崎地区】

萩市の伝建地区【浜崎地区】

浜崎は、城下町が形成された阿武川下流デルタ北東端に、城下町の形成にともなって開かれた港町です。近世は廻船業と水産業で栄え、大正から昭和初期にはイリコや夏蜜柑等の交易で栄えました。また、御座船を納めた御船倉は国史跡に指定されています。江戸時代以来の街路構成及び敷地割が残り、江戸時代から昭和初期に建てられた建物が多く残る点に高い価値が認められています。

○国の指定 平成13年11月14日 (港町)面積約10ha
○伝統的建造物
・建築物131件
・工作物(石垣、灯篭、玉垣など)57件
・環境物件(庭園、樹木)16件

藍場川

藍場川

清流阿武川が橋本川と松本川とに分岐する三角州の突端にあたる一帯を川島と呼び、下級武士が住んでいた所です。ここを起点に三角州内を2.6kmにわたって縫うように流れる藍場川は、もともと農業用水、家庭用水や防火用水として利用されていたものを、延享元年(1744)6代藩主毛利宗広により川舟が通れるように開削され、薪や炭などの物資の運搬に利用されました。大溝と呼ばれていましたが、川端に藩営の藍場ができ、そのため川が藍色に染まり、いつの間にか藍場川と呼ばれるようになったといわれています。今でもハトバと呼ばれる洗い場や川舟が通りやすいように中央を高くした石橋などに昔の面影が偲ばれ、城下町の生活の情緒を伝え残す数少ないところで、川沿いは歴史的景観保存地区に指定されています。

青木周弼旧宅

青木周弼旧宅

享和3年(1803)地下医青木玄棟の長男として、周防大島郡に生まれました。萩藩医能美洞庵に入門し、漢方医学を学んだ後、大阪に遊学して蘭学を修めました。さらに、江戸にて坪井信道、宇田川榛斎のもとで蘭医学を学び、一時長崎にも遊学しました。天保9年(1838)に藩医となり、藩の医師養成機関である萩南苑医学所(嘉永3年好生館と改称)の設立に尽力し、蘭学教授となり多くの弟子を教育し、また種痘法などを藩内に広めました。

伊藤博文旧宅・別邸

伊藤博文旧宅・別邸

旧宅は木造茅葺き平屋建て、29坪の小さなもので、萩藩の中間水井武兵衛(のち伊藤直右衛門と改名)の居宅でしたが、安政元年(1854)に博文の父林十蔵が一家をあげて伊藤家に入家し、ここに居住することになりました。国の史跡に指定されています。また別邸は、伊藤博文公が明治40年(1907)に東京府下荏原郡大井村に建てたもので、当地へは往時の面影をよく残す玄関、大広間、離れ座敷の3棟を移築しました。明治時代の宮大工伊藤万作の手によるもので、大広間の鏡天井や離れ座敷の節天井など意匠に優れています。ここにはガイドが常駐し、施設の説明を行っています。

円政寺

円政寺

●萩城城下町バス停より徒歩3分
月輪山円政寺は真言宗の寺院で、建長6年(1254)山口に創建された大内氏代々の祈願所であった。慶長9年(1604)頃に山口から移転され、毛利氏の祈願所となりました。境内には十二支彫刻の欄間で知られる金毘羅社があり、神仏習合の形態が見られる点で貴重な寺であります。伊藤博文が11歳の頃、住職恵運に論され、読み書きを習い、また、高杉晋作も子供のころにはよくここで遊んだといわれています。

鍵曲(かいまがり)

鍵曲(かいまがり)

城下に進入した敵を迷わせ、追い詰めるための工夫の一つが鍵曲です。左右を高い土塀で囲み、道を鍵手型に曲げることで迷路のようにしたもので、別名「追廻し筋」とも呼ばれます。 口羽家住宅そばの「堀内鍵曲」と、旧田中別邸近くの「平安古鍵曲」が往時の面影を色濃く残しています。

笠山

笠山

北長門海岸国定公園の中心に位置し、安山岩質の溶岩台地に直径30m、深さ30mの噴口を持つ火砕丘が乗った標高112mの小火山です。北麓には樹齢100年といわれるコウライタチバナが自生し、わが国唯一の自生地として天然記念物に指定されています。明神池から北西端虎ヶ崎を経由し頂上までの3.5kmは笠山自然研究路となっていて、自然探索を楽しむことができます。

風穴

風穴

笠山周辺には岩と岩の隙間から冷たい空気の出る穴、風穴がいくつかあります。
なかでも厳島神社裏の風穴は夏でも12℃~13℃という涼しさで天然クーラーとして気軽に楽しめます。

家老益田家旧宅物見矢倉

家老益田家旧宅物見矢倉

●益田家家老旧宅入口バス停より徒歩1分
重要伝統的建造物群保存地区の中の北の総門通りにある江戸後期の建造物です。高さ1.8mの石塁の上に建つ堅固な単層の建物で、永代家老益田家の長屋の一部であったが、旧三の丸北の総門近くにあり、物見を兼ねていたため物見矢倉と呼ばれました。

菊ヶ浜

菊ヶ浜

北長門海岸国定公園内に位置し、萩城跡から浜崎商港まで延々と続く白砂青松の美しい海岸で、夏は海水浴場としても賑わいます。また沖合いには笠山や、大島・相島など多くの島々を眺めることができ、日本の夕陽百選にも選ばれるほどのすばらしい景観を誇っています。

菊ヶ浜土塁(女台場)

菊ヶ浜土塁(女台場)

●女台場入口バス停より徒歩1分
文久3年(1863)5月10日の攘夷決行の日、下関の萩藩馬関砲台は関門海峡を通過する外国船に砲撃を加えたが、反撃を受け、大損害を被りました。これを機に萩藩は外国船の来襲に備えて菊ヶ浜に土塁の築造を住民に命じました。土塁の築造に当たって、特に武士の妻や奥女中の功績が大きく、通称「女台場」といわれています。県を代表する民謡「男なら」はこのときの作業唄として歌われたものです。現在、高さ3m、幅12mの土塁が50mにわたって比較的よく旧態を保っています。

菊屋家住宅

菊屋家住宅

●萩城城下町バス停より徒歩5分
萩藩で御用達を勤めた豪商菊屋家の住宅で、その屋敷は幕府巡見使の宿として本陣にあてられました。屋敷地には数多くの蔵や付属屋が建てられているが、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国の重要文化財に指定されています。この住宅は、主屋が極めて古く、全国的にみても最古に属する大型の町屋としてその価値は極めて高いものです。菊屋家に伝わる500点余りの美術品、民具、古書籍等が常設展示されており、往時の御用商人の暮らしぶりが偲ばれます。

木戸孝允旧宅

木戸孝允旧宅

天保4年(1833)萩藩医和田昌景の長男として生まれ、後に桂家の養子となり桂小五郎の名でも知られています。嘉永5年(1852)に江戸に出るまでの約20年間をこの実家和田家で過ごしました。この旧宅は、誕生の間や庭園などよく旧態を残しており、萩で過ごした当時の様子が伺えます。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

●萩城跡・指月公園入口バス停より徒歩1分
厚狭毛利家は毛利元就の5男元秋を始祖とする毛利氏一門で、萩屋敷は約15,500m2の広大な敷地を誇っていたが、主屋などは明治維新後に解体され、安政3年(1856)に建てられたこの長屋のみが残りました。本瓦葺き入母屋造りで、現存する萩の武家屋敷の中では最も大きく、国の重要文化財に指定されています。昭和43年(1968)に解体修理が完成し、内部に当時の調度品などが展示してあります。

旧田中別邸

旧田中別邸

●平安古南団地前バス停より徒歩3分
明治9年(1876)に貧困士族救済のために夏みかん栽培を奨励した萩藩士小幡高政の邸でした。邸内には「橙園之記」と刻んだ石碑が建っているが、これは明治22年に小幡高政が開拓時代の苦心を誌して、自宅の橙園に建碑したものです。後に、元内閣総理大臣田中義一の別邸となりました。

旧萩藩御船倉

旧萩藩御船倉

●御船倉入口バス停より徒歩3分
藩主の御座船を格納した倉であり、慶長13年(1608)萩城築城後、間もなく建てられたと思われます。現在は明治以後の埋め立てのため河岸から離れた場所にありますが、往時は松本川尻に面していました。構造は両側と奥に玄武岩で壁を築き、上部に瓦屋根を葺き、前面は木製扉を有しています。屋根を葺いた旧幕時代の船倉としては全国唯一の遺構で、国の史跡に指定されています。

久坂玄瑞旧宅跡

久坂玄瑞旧宅跡

●久坂玄瑞誕生地前バス停より徒歩1分
萩藩医久坂良廸の二男として天保11年(1840)に生まれ、17歳で吉田松陰の門下生となり、高杉晋作と並んで松門の双璧と呼ばれました。安政5年には京都、江戸に遊学し、尊王攘夷運動に力を注ぎました。人望厚く急進派の志士として活躍しましたが、禁門の変で負傷し鷹司邸内で自刃しました。現在旧宅地には久坂玄端誕生生地と記した石碑と、一画に三条実美による玄端追悼の和歌と玄端遺詠を刻んだ石碑が立ち並んでいます。

口羽家住宅

口羽家住宅

●ミドリヤファーム入口・メディカルポート萩入口バス停より徒歩4分
萩藩寄組士口羽家住宅。萩城下に残る上級武士の屋敷としては古く、かつ全国的にも比較的数の少ない武家屋敷の一遺例として貴重であります。主屋と表門が国の重要文化財に指名されています。主屋は18世紀末から19世紀初め頃に建てられたものと思われ、切妻造り桟瓦葺きで、入母屋造りの突出部をつけています。表門は、白壁となまこ壁のコントラストが美しく、萩に現存するものとしては最も雄大な規模を有する長屋門で、入母屋造り本瓦葺きです。江戸藩邸門を拝領して萩に移築したものと伝えられています。ここにはシルバーガイドが常駐し、施設の説明を行っています。

熊谷美術館

熊谷美術館

熊谷家住宅は問屋と金融、仲買、製塩を業とし、萩藩御用達として栄えた豪商で、熊谷五右衛門が明和5年(1768)に新築したものといわれ、国の重要文化財に指定されています。当家の土蔵3棟を改造した美術館には、熊谷家代々の当主が収集した美術品が展示してあります。主な展示品は、雪舟三幅対など書画屏風類、茶道具類、装飾用品などのほか文書資料約500点などがあります。特に、長崎において親交のあったドイツ人医師シーボルトから贈られた日本最古のピアノは必見です。

松下村塾

松下村塾

木造瓦葺き平屋建ての50m2ほどの小舎で、8畳の講義室・10畳半のひかえの間・1坪の土間部分から成っています。松陰は、身分や階級にとらわれずに門下生として受け入れ、わずか2年半の間ではありましたが、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、山形有朋、山田顕義、品川弥二郎ら、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。国の史跡に指定されています。

大照院

大照院

霊椿山大照院は臨済宗の寺院で、荒廃していたのを、2代藩主綱広が亡父の初代藩主秀就の菩提所とするために承応3年(1654)から明暦2年(1656)にかけて再建しました。寺伝によると、前身は天台宗の月輪山観音寺で、桓武天皇の勅願寺であったそうです。隣接する大照院墓所は国指定の史跡で、秀就以下2代から12代までの偶数代の藩主と夫人及び一族と秀就に殉死した7藩士の墓石があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が600数基あります。当寺は延享4年(1747)の火災で焼失しましたが、現在の本堂、庫裏、鐘楼門は6代藩主宗広が寛延3年(1750)に再建したもので、特に庫裏は藩主の菩提寺にふさわしい規模と風格を備えており、県の文化財に指定されています。寺宝類も多く、国の重要文化財の木造赤童子立像、県の有形文化財の木造義翁和尚倚像などがあります。

高杉晋作誕生地

高杉晋作誕生地

●萩城城下町バス停より徒歩7分
萩藩大組士高杉小忠太の長男として天保10年(1839)に生まれ、安政4年(1857)より松下村塾で吉田松陰に学びました。文久3年(1863)5月、萩藩は下関海峡で攘夷の火蓋を切りましたが四国連合艦隊の攻撃を受け大敗しました。この危機打開のため、身分を問わず有志が集まり編成された新しい軍隊・奇兵隊を結成し、その活躍により恭順に傾いていた藩論を倒幕へと導きました。旧宅内には晋作の写真や書などの展示、邸内には自作の句碑「西へいく 人をしたひて 東行く 心の底そ 神や知るらん」や産湯の井戸があります。

問田益田氏旧宅土塀

問田益田氏旧宅土塀

●天樹院入口・萩夏みかん工房前バス停より徒歩5分
永代家老益田家の分家筋にあたる問田益田氏旧宅の土塀。旧三の丸に位置し、高い土塀を巡らした重臣たちの屋敷が建ち並んでいた所で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、今でも土塀が数多く残っています。特に、この土塀は231.7mと長く、往時の姿を最もよくとどめています。

東光寺

東光寺

護国山東光寺は、元禄4年(1691)に3代藩主毛利吉就が萩出身の名僧慧極を開山として創建した全国屈指の黄檗宗の寺院で、大照院と並んで毛利家の菩提寺である。総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残している。本堂裏の毛利家墓所は国指定の史跡で、吉就から11代までの奇数代の藩主とその夫人及び一族、関係者の墓があり、墓前には藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並ぶ。このほか殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などがある。寺宝類も多く、長州藩御用絵師の雲谷派の絵画、県指定有形文化財の木額、柱聯、傍牌などがあります。

夏みかんと土塀

夏みかんと土塀

萩の夏みかんの栽培は失業武士の救済事業の一つとして明治9年ごろから始まりました。5月上旬~下旬には白い小さな花をつけ、甘い香りが町じゅうに漂います。

野山獄跡・岩倉

野山獄跡・岩倉

●野山獄跡入口バス停より1分
藩政時代の獄屋敷で、野山獄は上牢として士分の者を収容し、岩倉獄は下牢として庶民を収容しました。安政元年(1854)に海外密航に失敗した吉田松陰は野山獄、そのときの従者金子重輔は岩倉獄に投ぜられました。野山獄跡には十一烈士の碑、岩倉獄には重輔絶命の詩碑と松蔭が重輔に与えた詩碑が建てられ、萩藩の波乱に富んだ維新当時を偲ぶことができます。

浜崎の町屋

浜崎の町屋

●御船倉入口バス停より徒歩4分
浜崎は、萩城築城後松本川河口に萩城下で最も早く造られた町です。町は港を背後に持つ町人地であり、御船倉や御番所、魚市場、渡し場も設置され17世紀中頃には泉福寺や住吉神社が勧請されました。江戸時代には北国船の廻船業や商業、漁業で栄え、藩の経済を担っていました。明治以降も繁栄し特に対象から昭和初期にかけて最盛期を迎えました。現在でも、大戸やしとみ戸、格子戸を持つ江戸時代や明治の町屋(商家)が残っており、浜崎地区10.3haは国選定の重要伝統的建造物群保存地区となっています。

萩キリシタン殉教者記念公園

萩キリシタン殉教者記念公園

●ミドリヤファーム入口・メディカルポート萩入口バス停より徒歩4分
萩城の石垣築造に際して、五郎太石(石垣の間に詰める石)が盗まれるという紛争が益田元祥と熊谷元直、天野元信の間で始まり、石垣築造工事が2ヵ月以上も遅延し、毛利輝元は非は熊谷、天野両氏にありとして、一族11人を打ち滅ぼしました。
五郎太石事件といい、この事件は熊谷、天野両氏がキリシタン信者であったため、この事件を口実に誅伐されたものといわれています。宣教師ビリオンによって建てられた熊谷、天野らの殉教碑と、明治初年に萩へお預けになった長崎浦上村のキリシタン信徒が眠る墓が並び、当時の悲惨な状況を今に伝えています。

萩城跡

萩城跡

●萩城跡・指月公園入口バス停より徒歩2分
萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていました。明治7年(1874)、天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されています。旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建された際、総面積約20万m2の境内が指月公園として整備されました。城跡の構造をよく残していることが特徴で、園内には天守閣跡、花江茶亭、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などの旧跡があり、また県の天然記念物に指定されているミドリヨシノを始め、600本あまりのソメイヨシノが春に咲き誇ります。

萩城城下町

萩城城下町

萩城城下町は国の史跡に指定されており、町筋は碁盤目状に画され、武家屋敷や町屋が軒を連ねていました。今も町筋がそのまま残り、よく往時の面影をとどめています。菊屋横町、伊勢屋横町、江戸屋横町と呼ばれている小路があり、萩藩御用達の豪商菊屋家、また高杉晋作誕生地、木戸孝允旧宅、青木周弼旧宅やなまこ壁の土蔵、門、土塀などが並んでいます。

萩博物館

萩博物館

●萩城外堀入口バス停より徒歩1分
近世都市遺産の町並みや市内に数多くある文化財、史跡などを結びつける「まちじゅう博物館」の中核施設として2004年11月に開館。収蔵資料7万点の保存・展示、高杉晋作の遺品を公開します。

萩反射炉

萩反射炉

煙突部分の上部は2本に分かれ、基底部は長方形で、上部に向かって9mまでは玄武岩と赤土を用い、先端の2.5mは大きな煉瓦を使用しています。近世の反射炉で現存するのは、伊豆の韮山に築造されたものとここの2基だけで、我が国の産業史上、貴重な遺跡であるとともに、萩藩の幕末における軍備充実の熱意がうかがえます。国の史跡に指定されています。

明神池

明神池

笠山の東麓にあって、笠山と本土との間に砂洲ができて陸続きになった時、埋め残されて 海跡湖となったもの。大池、中の池、奥の池の三部分からなっています。池は溶岩塊の隙間を通して外海とつながっており、潮の干満に応じて池の水も増減します。池の中には貞享3年(1686)の創建といわれる厳島神社があって、漁業の神様としてこの地の漁民に信仰されていて、豊漁を祈願して池に生きた魚を奉納し、これらが繁殖したものといわれています。国の天然記念物に指定されています。

山口県立萩美術館・浦上記念館

山口県立萩美術館・浦上記念館

萩市出身の実業家である浦上敏朗氏寄贈の浮世絵版画と東洋陶磁器の優品を収蔵する美術館です。葛飾北斎を筆頭に、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、歌川広重といった6大浮世絵師の作品を網羅しているほか、特に歌川派の作品が充実していて、浮世絵版画総数は約4,800点にも上ります。また、東洋陶磁器は紀元前三千年頃の彩陶から17世紀中頃の明時代後期の古染付までの約5000年間のものがあって、漢の線釉、唐三彩、高麗青磁など優れた作品が数多くあります。

吉田松陰誕生地

吉田松陰誕生地

●松陰誕生地前バス停より徒歩1分
天保元年(1830)に萩藩士杉百合之助の次男としてこの地に生まれた吉田松陰は、本名は矩方、通称寅次郎と呼ばれていました。山鹿流兵学師範として毛利家に仕えていた叔父の吉田家を継ぎ、兵学修行のため九州、江戸、東北へ遊学し見聞を広めました。安政元年(1854)ペリー来航の際に海外密航を懇願したが拒否され、その後萩の実家で謹慎の身となります。この時周囲の人物に講義を始めたのが後の松下村塾となりました。維新に活躍する多くの逸材を育てましたが、安政の大獄により処刑されました。現在誕生地には建物の敷石と松陰産湯の井戸が残っており、高台には松陰と、海外密航時の同士・金子重之輔の銅像が建っています。

吉田松陰の墓

吉田松陰の墓

●松陰誕生地前バス停より徒歩1分
松陰誕生地に隣接し、墓は花崗岩の自然石で、表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれています。松陰刑死後、遺髪を埋めて百ヶ日忌に建てられました。また、この墓所には、杉百合之助、吉田大助、玉木文之進、久坂玄瑞など一族の墓のほか、門人の高杉晋作などの墓が立ち並んでいます。